第54話   篠子鯛釣   平成15年12月18日  

篠子鯛釣りは庄内の初秋から晩秋にかけての風物詩となっている。

一間以内(1.21.5m)の極く短い庄内竿で黒鯛の稚魚を一匹づつ釣る釣である。から揚げにしたり、佃煮にしたり、焼き干しにしたりと江戸の昔から盛んに釣られていた。それは下級武士のご馳走であり、その一部を売って生活の糧にもしていた大切な釣りでもあったのである。今では考えられないが、自分も篠子鯛釣には熱を上げて行けば半日で100200匹を釣り上げていた時代があった。最近では2030匹釣るので一日掛かりらしい。50匹釣れるのは年に一回ぐらいであったと云う。

今年は冷夏で産卵をしたものの大半が孵化していなかったらしく篠子鯛をまったくと云うほど見かけなかった。しかし、このような事を過去にも幾度か経験している。そして元に戻るまでは数年を要した。

江戸時代の終わりに書かれた「垂釣筌」に寄れば寒露の頃(108日頃)に良く釣れたと書かれている。昔は良く釣れたが今釣れない物の代表として篠子鯛を挙げている。そして其の原因として文化元年(1804)鳥海山の爆発による秋田県由利郡象潟町の大地震で海底が隆起した事を上げている。海底が56mも隆起した為に、下り篠子鯛が南下しなくなった為と書いている。又、槁木は釣歴50年で100匹釣ったのは指を数えられる位だとしている。そんな篠子鯛も明治から大正にかけては復活し1000匹を釣ったと云う人もいたらしい。

これと同じような事が昭和32年から始まり昭和44年4月に完成した八郎潟干拓事業が行われた時にも埋め立てが原因で篠子鯛が釣れなくなったと新聞などにも書かれ、巷でも盛んに云われていた。当時は八郎潟の汽水で生まれた稚魚(篠子鯛)が南下し新潟沖で越冬するといわれていたからである。いわゆる南下説である。

昭和30年代後半までは下り篠子と云われ大群が磯に押し寄せていたが、八郎潟の干拓の頃から見られなくなったことに起因すると云われて来た。魚の大群の押し寄せる事を庄内では「湧く」(わくとか「湧き」と云っている。この「湧き」とは、漁師言葉で云う「ナブラ」と同じ言葉と思えば良い。大群が押し寄せると海水の色が変ったと云う。底から限りなく魚が出で来るので入れ食い状態となり、上手な釣り人は1000匹と云う人もあったらしい。この南下説も何時だったかの山形新聞に寄れば、秋に上磯で10匹に1匹の割合で篠子鯛にタグを付けて放流したところ、10日も過ぎた頃20数km北の酒田で釣れた事があったと云う事があった。暖流に乗っての北上と考えられる。この事からしても自分は対馬海流が岸側を北上しているので南下は考えられないと思っている。

自分も釣りを長年やっているが、篠子鯛の「湧き」の経験がない。唯、海タナゴの「湧き」は二回経験している。この時はアジのナブラに似て盛んに回転して底から無尽蔵にタナゴが狂ったように出てきたのを覚えている。多分それと同じような物らしい。しばらくすると移動して突然居なくなるというものであった。篠子鯛の「湧き」の話を聞くと自分の経験と同じようなものであった。